山猫図書館

 東京芸大の美術解剖学研究室にいたこ
ろ、毎週水曜は人物デッサンの日だった。
解剖学なので、モデルさんの隣には骨格
標本と筋肉模型も並ぶ。同じ研究室の仲間
たちは、難関の実技入試を突破してきただけ
あって、さすがに「上手い」。最初は少し気後れ
してしまったが、鉛筆を動かすと夢中になった。
朝から数枚のクロッキーとデッサンを終えて、
お昼に外に出ると、いつも不思議と目がよくな
ったような気がした。ふだんよりも緑が鮮やかに
きらめき、葉の一枚いちまいもはっきり見える。
世界は光と影で構成されているんだなあ、などと
感慨にふけったりもした。
 写実的に描くことは、見る力を磨くことなのだ。
学部のときに生物学の実習でスケッチをしたときも、
似たようなことを感じた。記録をとるためだけなら、
写真の方が手っ取り早い。でも時間をかけてスケッチ
をすることで、はじめて構造が見えてきたりする。
 デッサンやスケッチは、概念の枠組みをいったん
はずして、世界をありのままとらえる訓練になる。だから
多くの画家が、一度写実的な表現を究めてから、独創的
な表現を見いだしていくのだろう。
   「上手い、おもしろい  齋藤亜矢(図書/6月号/2018)」
 

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    連がら善悪ある事
 歌はただ同じ詞なれど、続けがら、言ひがらにて善くも悪しくも聞
ゆるなり。かの友則が歌に、「友まどはせる千鳥鳴くなり」といへる、
優に聞こゆるを、同じ古今の恋歌のなかに、「恋しきにわびて魂まどひ
なば」ともいひ、又「身のまどふだに知られざるらん」などいへるは、
ただ同じ詞なれど、おびただしく聞こゆるは、みな続けがらなり。され
ば、古歌に確かにしかじかありなど証を出す事は、やうによるべし。
その歌にとりて善悪あるべき故なり。曽禰好忠が歌に、
   播磨なる飾磨に染むるあながちに人を恋しと思ふころかな
「あながちに」といふ詞は、うちまかせて歌によむべしとも覚えぬこ
とぞかし。しかあれど、「飾磨に染むる」と続きて、わざとも艶にや
さしく聞ゆるなり。古今歌(に)、
   春霞立てるやいづこみ吉野の吉野の山に雪は降りつつ
此はいとめでたき歌なり。なかにも「立てるやいづこ」といへる詞、
すぐれて優なるを、ある人の社頭の菊といふ題をよみ侍りしに、
   神垣に立てるや菊の枝たわみ誰が手向けたる花の白木綿
同じく「立てるや」とよみたれど、これは、わざとも詞もきかず手づ
つげに侍り。
       鴨 長明   『無名抄』
 
 

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          おほかたは、歌を判ずるには、作者を隠すといひながら、ひとへに
     知らぬもゆゆしき大事なり。又あらはれたるもはばからしく、表に
     負くる事多かり。ただ隠せるやうにて、うちうちにいささか心得たる
     がめでたきなり。
 
          鴨 長明 『無名抄』
 
 
 

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      緑陰       
  池の水ぎはの立札に
  「この池に投石すべからずー当寺住職謹言」
  と書いてある
 
  ところが池に石を投げこむと
  どぶんといふ音がする
  もう一つ投げこむと
  どぶんといふ音がする
  何か蘊蓄ありげな音ではないか
  もう一つ投げこむと
  これまた奥妙なる音ではないか
 
   もう一つ大きな石を投げこむと
   がらりと庫裡の障子をあけ
   「こら待て、くせもの」
   老僧が帯をしめながら
   おつとり刀の恰好でとび出して来た
 
     井伏鱒二『厄除け詩集』(講談社文芸文庫)
 
 
 
 

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 僕は見る目ができかけている。自分でもどういうのかよくわからないが、
なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも
奥へはいる。きょうまで自分でも知らなかった心の隅があって、今はなにもが
そこまではいりこんで行くのだ。その隅でどんな事が起こるかは知らない。
 僕はきょう手紙を書いたが、それを書きながら、僕はこの都会へ来てから
まだ三週間になるだけであることに気がつき、不思議に感じた。どこかほかの
場所で、たとへば田舎で過ごした三週間は、一日のように短く感じられるが、
ここではそれが何年もに感じられる。僕は二度ともう手紙を書かないことに
しよう。僕が変わりかけていることをなんのために知らせるのだろう?僕が
変わりかけているとすれば、僕は今までとは同じ者ではいないといえる。今
までとは同じ者でないとすれば、僕は知人を持たないことになる。僕を知らない
他人へ手紙は書けない。
    ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』(望月市恵訳・岩波文庫)
 

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        まぼろしの藤井寺球場         山田兼士
  平成の始め 二十世紀の終わり頃だ
  藤井寺球場は熱気につつまれていた
  球場から徒歩十分に住んでいた僕は
  幼い息子を連れて試合を見に行った
 
  二上山に向かって大きく弧を描いた
  ノリの本塁打に息子は目を輝かせた
  鳴り物応援が禁止された観客席には
  歓声と野次と声援と怒号が渦巻いた
 
  独文学者・評論家の川村二郎さんは
  この球場外野席からの古市古墳群は
  特上のながめだよ とぼくに語った
  昼間の外野席には 縁がなかったが
 
  一九九七年球団は大阪市内へ移動し
  野球が消えた街は急速に静かになり
  数年後には球場も全て取り壊された
  駅前商店街もやがて廃れてしまった
 
  球場跡地には 小学校が建てられた
  いつの日か 孫が入学してくれたら
  父兄として 屋上に上がらせてもらい
  古墳群を眺めようと ひそかな願い
 
  その寂れた駅前通りに このところ
  飲食店が増えて活況を呈していると
  大人になった息子が言うものだから
  気になって さっそくでかけてみた
 
  かつての球場に続く商店街あたりで
  なるほど 何件かの店が軒を並べて
  それなりに繁昌しているらしい様子
  居酒屋「バファローズ」に入ってみる
 
  店中の客達が赤いメガフォンを振って
  大声で歌い大変な盛り上がりようで
  天井近くではブラウン管型テレビが
  ノリのホームランを映し出していた
 
  あれは・・・・・・何年頃の・・・・・・映像だろう
  客の一人に尋ねかけ思わず口を噤む
  客席で冷酒を飲む赤法被姿の大男は
  引退したばかりの ブライアントだ
 
  店を出て小学校のあたりを眺めたら
  歓声と野次と声援と怒号が渦巻く中
  ナイター照明の眩いカクテル光線が
  あかあかと 夜空を 照らしていた
      「季刊ビーグル 第39号(2018/04)」
 

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     勧 酒           于武陵
 
 勧君金屈梔
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離
 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
      井伏鱒二訳詩(講談社文芸文庫)
 

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   そのつど         永井  祐
 二月は逆に長かったっていう人にコンビニのドアを開けてあげます
 大学生ノリは世界に存在し僕らはそれを指摘していく
 仕事するごはんを食べるLINEする 百均のレジに列ができてる
 春になったところで一人が風邪をひく もう一人ねころがって本読む
 カーテンを半分開けた部屋のなかビニールの音ときどきしてる
      「うた新聞  卯月作品集」(平成30年4月10日第73号)
 
 
 

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日日の言葉

 そしてある晩。文子が鄭の部屋に遊び
に行くと、見知らぬ青年が火鉢を囲んで
何やら鄭と話し込んでいた。青い職工服
を着て茶色いコートを羽織り、真っ黒な
髪は肩まで伸びていた。ガリガリに痩せ
て、コートのボタンは落ちそうにぶらぶ
らしているし、袖口は擦り切れ、肘のあ
たりに穴も開いている。見るからに貧乏
くさくて寂しげな風情の男だ。だのに、
なぜかその見すぼらしさに逆行するような
ふてぶてしい風格があった。
 ブレイディみかこ「我ら、犬ころズ」(図書 2018年4月)
 
 

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日日の言葉

  いちど、人に一生もののあだ名がつく瞬間を見たことがある。
 広い座敷での宴会だった。隣の座卓に若い編集者が座っていて、
出版界の未来についてとか、あるべき編集者の姿とかについて、と
ても真摯に熱っぽく語っていた。
 しばらくしてふと立ち上がり、座卓を回りこんで反対側に座った。
するとなぜか急にへべれけになり、がくっと背中が丸くなり、ろれ
つが回らなくなった。話す内容まで恋愛の悩みとかになった。そし
て言った。
「俺だってさあ、オダバイでデートしたいっすよ」
 お台場、と言いたかったらしい。「オダバイ君」誕生の瞬間だっ
た。それきり何年も会っていないが、このあいだ誰かが彼のことを
まだ「オダバイ君」と呼んでいるのを聞いた。
         岸本佐知子「ネにもつタイプ  一生もの」(ちくま 2018/4)
 

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