日日の言葉

 『伊勢物語』がもともと歌語りだったという、大きな証拠は、
と言うと、しつこく「けり」という助動辞を身に纏うというところ
に見いだされる。『古今集』の詞書きにもしつこく「けり」が
出てくる。それらもベースが歌語りだったからではないか。
大和、篁、平中など、「けり、けり、けり」・・・・・・と〈けり〉が
いっぱいあふれるのは、歌語りをもとにしていよう。『竹取物語』
でも、諺をめぐる語りの部分になると「けり、けり」になることは
よく知られる。それと同じ文体を現代に求めると、口承の語り、
いわゆる昔話がそれだと思い当たる。「けり」という助動辞は
“時間の経過”をあらわす。世界の言語には未完了過去や半過去、
進行形など、これに類する表現を持つ言語がたくさんあって、
日本語の「けり」はそれらの一つだ。それを使って語る。
      藤井貞和『日本文学源流史』(青土社)
 

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日日の言葉

 あてなるもの 薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷に
あまづら入れて、あたらしき金まりに入れたる。水晶の
數珠。藤の花。梅の花に雪のふりかかりたる。いみじう
うつくしきちごの、いちごなどくひたる。
 
   池田亀鑑校訂『枕草子(42)』(ワイド版 岩波文庫)
 
 

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日日の言葉

室生犀星の「女ひと」の中に、「ビフテキの薔薇色と脂」といふ言葉が
ある。その言葉を讀んで以来、ビフテキといふものを考へる時、魔利
の頭にその言葉が、浮んでくる。ビフテキをナイフで切つてたべると
いふことは「現實」であり、ビフテキ自身も「現實」であるが、ビフテキ
を美味しいと思ひ、美しいと思ふ心の中にはあの焦げ色の艶、牛酪
の匂ひの絡みつき、幾らかの血が滲む薔薇色、なぞの交響楽があり、
豪華な宴會の幻想もある。又は深い森を後にした西歐の別荘の、薪の
爆ぜる音、傍で奏する古典の音樂の、静寂なひびき、もあるのである。
 
                   森 茉莉『贅澤貧乏』(新潮社)
 
 

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日日の言葉

 師の風雅に萬代不易有。一時の變化あり。この二ッに究り、基本
一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば實に知れるに
あらず。不易といふは新古によらず、變化流行にもかかわらず、誠に
よく立たる姿也。代々の哥人の哥を見るに、代々その變化あり。又
新古にもわたらず、今見る所むかし見しにかはらず、あはれなる歌
多し。是先不易と心得べし。また千變万化するものは、自然の理なり。
變化にうつらざれば風あらたまらず。是に押移らずと云は、一端の
流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也。せめず心を
こらさざるもの、誠の變化を知ると計云事なし。唯人にあやかりて
行のみ也。せむるものはその地に足をすへがたく、一歩自然に進む
理也。行末いく千變万化するとも、誠の變化は皆師の俳諧也。
 
        三冊子(ワイド版 岩波文庫)
 

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日々の言葉

「おっしゃるとうりだ。絵のモデルをつとめるというのは、
たしかに予想していたよりも厳しい労働です」と免色は
言った。「絵に描かれていると思うと、なんだか自分の
中身を少しづつ削りとられているような気がしますね」
「削りとられたのではなく、そのぶんが別の場所に移植
されたのだと考えるのが、芸術の世界における公式的な
見解です」と私は言った。
「より永続的な場所に移植されたということですか?」
「もちろん、それが芸術作品と呼ばれる資格を持つもの
であればということですが」
「たとえばファン・ゴッホの絵の中に生き続ける、あの名も
なき郵便配達夫のように?」
「そのとうりです」
「彼はきっと思いもしなかったでしょうね。百数十年後に、
世界中の数多くの人々が美術館までわざわざ足を運び、
あるいは美術書を開いて、そこに描かれた自分の姿を
真剣な眼差しで見つめることになるだろうなんて」
「まず間違いなく、思いもしなかったでしょうね」
「みすぼらしい田舎の台所の片隅で、どう見てもあまり
まともとは思えない男の手によって描かれた、風変わりな
絵に過ぎなかったのに」
私は肯いた。
 
       村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(新潮社)
 
 

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日々の言葉

 維継中納言は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、
読経うちして、寺法師の円伊僧正と同宿して侍りけるに、
文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、「御坊をば
寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今こそよりは
法師とこそ申さめ」と言はれけり。いみじき秀句なりけり。
     『徒然草 第八十六段』(岩波文庫)
 

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日日の言葉

あけがたの夢              谷口純子
 そこは赤茶けた畳の二階で、わたしは娘と一緒に何かを
食べている。安くて美味しいものを食べさせてくれる評判の
店らしい。食べ終わって、横にある紙袋からスカートをとりだし
はいているカーゴ・パンツから着替えようとしたら、娘がおどろ
いている。娘のショックが伝染してはきかけたスカートをもとに
もどした。なんだか変なことをしてしまったようだ。そうしたら
隣にいた小太りのお兄さんが誰かを猛烈になぐりはじめた。
押し入れの中まで追い詰めてぽかぽかやっている。娘と
状況を解釈しあいながら、階下におりると海水がひたひたと
みちていて、大小さまざまな魚が泳いでいる。中くらいの鯛の
ような魚は歯がぎざぎざで凶暴そうである。「これはまずくって
ね」と声がして、いつのまにかかたわらにすべてを心得たような
女性が膝をそろえて座っている。細面のおとなっぽい人。
壇蜜とか竹久夢二の「黒船」の女の人のふんいきだ。そうか
食べられないのかと、じっと魚の動きを追っていると猛烈に
狩猟本能がめざめてきて、家中さがしまわって、やっと針箱
から絹糸を見つけ、ああ釣針がないとあせっているところで
目が覚めた。夜中に雪が降っていたらしい。
 

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日々の言葉

 村上の前帝の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、様器に
盛らせ給ひて、梅の花をさして、月のいと明きに、「これに歌
よめ。いかがいふべき」と、兵衛の蔵人に賜はせたりければ、
「雪月花の時」と奏したりけるをこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。
「歌などよむは世の常なり。かくをりにあひたることなんいひがたき」
とぞ仰せられける。
 おなじ人を御供にて、殿上に人さぶらはざりけるほど、たたずませ
給ひけるに、炭櫃にけぶりの立ちければ、「かれはなにぞと見よ」と仰せ
られければ、見て帰りまゐりて、
  わたつ海の沖にこがるる物みればあまの釣してかへるなりけり
と奏しけるこそをかしけれ。蛙の飛び入りて焼くるなりけり。
          池田亀鑑校訂『枕草紙(182)』岩波文庫
 

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日々の言葉

闇汁
一、時は明治三十二年十月二十一日午後四時過、處は保等
   登藝須發行所、人は初め七人、後十人半、半はマー坊なり。
一、闇汁の催しに群議一決して、客も主も各物買ひに出つ。取り
  残されたる我ひとり横に長くなりて淋しげに人々の帰を待つ。
一、おくればせに来られし鳴雪翁、持寄りと聞いて、匆々に出て
  行きたまふ。出がけに「下駄の歯が出て来ても善いのですか」
  と諧謔一番。
一、一人帰り二人帰り、直に台所に入りて、自ら洗ひ自ら切る
  クスクスと忍び笑ふ聲、忽ちハハハハハとどよみ笑ふ聲。
一、準備出来る迄に一會催すべしとの議出つ。座上柿あり、柿
  題とす。鳴雪翁曰く十句の時は屹度句が失せますと。果して
 然り。
一、瓢亭、青々後れて到る。物無く句無し。
一、一個の大鍋は座敷の中央に据ゑられ、鍋を囲んで座する人
  九人、伏す人一人、いずれも眼を圓くし、鼻息を荒くして鍋の
  中を睥睨す。鍋の中から仁木弾正でもせり上りさうな見えなり。
 ぬば玉の闇汁會はいよいよ幕あきとなりぬ。
一、鳴雪翁曰く、飯を喰ふて来て残念しましたと。先づ椀を取つて
 なみなみと盛る。それより右廻りに順を追ふて各盛る、廻つて
 未だ半に至らず鳴雪翁既に二杯目を盛る。「實にうまいです」。
一、盛るに従つて杓子にかかる者、青物類はいふに及ばず、豚
 あり、魚あり、餅あり、竹輪あり、海の物、山の物、何が何といふ
 事を知らず。只かからぬは一寸八分の観音様あるのみ。
一、鍋の中を杓子にてかきまぜながら「ヤーヤー餡餅がかかつたぞ、
 誰だ誰だ、大福を入れたのは」と碧梧桐「」ぶ。皆々笑ふ。固より
 入れた者の外に入れた者を知らず。
 
       正岡子規:底本「ほとときす 第三巻二號」ほとときす發行所
       1809(明治32)年11月10日発行

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日々の言葉

 僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさとは何か?それは、いいものと
悪いものの差がはっきりわかる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、
中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。
もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人
的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の
質みたいなのは大きく違ってきますよね。価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生
を作っていく。それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったり
するわけだけど、僕の場合は音楽です。それだけに本当にいい音楽に巡り合った
ときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きててよかったなあと
思います。
    村上春樹(余白のある音楽は聴き飽きない『雑文集』)新潮文庫

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