日日の言葉

 漱石の小説は、滑稽な小説でなくても、又、「道草」のような
暗い小説の中にでも、時々、おかしいところがある。今も書いた
門野だが、門野が湯上りの顔を電灯の光に照らして出て来た。
と書いてあるが、何でもないことであるが一寸、笑いたくなるのだ。
真面目な、しかも暗い小説の中ででもこんな風だから、身辺小説
ではおかしいところは枚挙にいとまなしである。なんだかの小説で
漱石の家に、或正月の二日に虚子が来て何かは忘れたが謡を
漱石にうたえといい、虚子が鼓の相の手を入れる。漱石はあまり
巧くないところへ、時々、虚子が力の入った掛け声をして鼓を打つ
ので、その度にうたの方はよろけて、情ない謡になってしまう。漱石
はすっかり悲観しているところに、虚子を玄関に送った細君が戻って
来て盛に虚子を褒める。「虚子さんの鼓、お上手ですねえ。あの鼓を
お打ちになる度に袖口から長襦袢が出るところもよかった」と、感想を
のべる。すると漱石は腹の中で、「虚子の鼓もうまくはなかった。袖口
から長襦袢が出るところもちっともよくなかった」と、呟くのである。
      早川茉莉編『森茉莉 幸福はただ私の部屋の中だけに』
      (ちくま文庫)
 

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日日の言葉

 日本語の隣接語であるアイヌ語は、非常に古い太平洋
諸語とかかわり深いらしいと言える程度にしか分からず、
古日本語もまたその基層において幾万年という遠い起源
から来ていると思われる。ということは、まったく別の言語
系であるにもかかわらず、両者の共存ないし抗争関係も
また気が遠くなるほど遙かからであるはずだ。有史以後、
その共存/交争関係を『日本書紀』を始めとする諸文献から
しっかりと受け取ることができる。言語史は何よりもまずここ
から記述が開始されるべきだろう。その共存/抗争史の過程
で、政治的優位と劣位と、軍事的征服と敗北とが生じ、ひいては
後代になって、つよくなってくる差別的感情など、源流史、とりわけ
文学は敗者や深層にせまるために、文学源流史の課題になるのだ。
 
       藤井貞和『日本文学源流史』(青土社)
 
 

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日日の言葉

 午後のお茶もまだ終わらないうちにそろそろ日も暮れ
かかるころ、まだ明るい空の遠くの方に小さな褐色の
斑点の見えることがあって、それは青い夕方に飛びかう
羽虫か小鳥たちともとられかねないものだった。そんな
ふうに、はるか彼方に山を望むとき、人はそれを雲だと
思いこむことがある。だがその雲が巨大で、頑丈で、
びくともしないものであることを知ると、人は感動を覚える
ものだ。同じように、夏の空に浮かぶ褐色の斑点が羽虫
でも小鳥でもなくて、何人かの者が乗りこんでパリを哨戒
している飛行機だったということは、私を感動させた。
 
       マルセル・プルースト 鈴木道彦訳
      『失われた時を求めて 12』(集英社文庫)
 
 

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日日の言葉

 ミスタ・レオポルド・ブルームは好んで獣や鳥の内臓を食べる。
好物はこってりしたもつのスープ、こくのある砂囊、詰めものをして
焼いた心臓、パン粉をまぶしていためた薄切りの肝臓、生鱈子の
ソテー。なかでも大好物は羊の腎臓のグリルで、ほのかな尿の
匂いが彼の味覚を微妙に刺激してくれる。
 その腎臓のことを考えながら彼は台所でそっと動きまわり、
でこぼこしている盆に彼女の朝食を並べていた。冷たい光と空気が
台所にみちているけれども戸外はどこまでもなごやかな夏の光だ。
おかげでだいぶ腹もへったような気がする。
 
          ジェイムス・ジョイス『ユリシーズ』(集英社文庫)
 
 

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日日の言葉

 『伊勢物語』がもともと歌語りだったという、大きな証拠は、
と言うと、しつこく「けり」という助動辞を身に纏うというところ
に見いだされる。『古今集』の詞書きにもしつこく「けり」が
出てくる。それらもベースが歌語りだったからではないか。
大和、篁、平中など、「けり、けり、けり」・・・・・・と〈けり〉が
いっぱいあふれるのは、歌語りをもとにしていよう。『竹取物語』
でも、諺をめぐる語りの部分になると「けり、けり」になることは
よく知られる。それと同じ文体を現代に求めると、口承の語り、
いわゆる昔話がそれだと思い当たる。「けり」という助動辞は
“時間の経過”をあらわす。世界の言語には未完了過去や半過去、
進行形など、これに類する表現を持つ言語がたくさんあって、
日本語の「けり」はそれらの一つだ。それを使って語る。
      藤井貞和『日本文学源流史』(青土社)
 

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日日の言葉

 あてなるもの 薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷に
あまづら入れて、あたらしき金まりに入れたる。水晶の
數珠。藤の花。梅の花に雪のふりかかりたる。いみじう
うつくしきちごの、いちごなどくひたる。
 
   池田亀鑑校訂『枕草子(42)』(ワイド版 岩波文庫)
 
 

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日日の言葉

室生犀星の「女ひと」の中に、「ビフテキの薔薇色と脂」といふ言葉が
ある。その言葉を讀んで以来、ビフテキといふものを考へる時、魔利
の頭にその言葉が、浮んでくる。ビフテキをナイフで切つてたべると
いふことは「現實」であり、ビフテキ自身も「現實」であるが、ビフテキ
を美味しいと思ひ、美しいと思ふ心の中にはあの焦げ色の艶、牛酪
の匂ひの絡みつき、幾らかの血が滲む薔薇色、なぞの交響楽があり、
豪華な宴會の幻想もある。又は深い森を後にした西歐の別荘の、薪の
爆ぜる音、傍で奏する古典の音樂の、静寂なひびき、もあるのである。
 
                   森 茉莉『贅澤貧乏』(新潮社)
 
 

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日日の言葉

 師の風雅に萬代不易有。一時の變化あり。この二ッに究り、基本
一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば實に知れるに
あらず。不易といふは新古によらず、變化流行にもかかわらず、誠に
よく立たる姿也。代々の哥人の哥を見るに、代々その變化あり。又
新古にもわたらず、今見る所むかし見しにかはらず、あはれなる歌
多し。是先不易と心得べし。また千變万化するものは、自然の理なり。
變化にうつらざれば風あらたまらず。是に押移らずと云は、一端の
流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也。せめず心を
こらさざるもの、誠の變化を知ると計云事なし。唯人にあやかりて
行のみ也。せむるものはその地に足をすへがたく、一歩自然に進む
理也。行末いく千變万化するとも、誠の變化は皆師の俳諧也。
 
        三冊子(ワイド版 岩波文庫)
 

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日々の言葉

「おっしゃるとうりだ。絵のモデルをつとめるというのは、
たしかに予想していたよりも厳しい労働です」と免色は
言った。「絵に描かれていると思うと、なんだか自分の
中身を少しづつ削りとられているような気がしますね」
「削りとられたのではなく、そのぶんが別の場所に移植
されたのだと考えるのが、芸術の世界における公式的な
見解です」と私は言った。
「より永続的な場所に移植されたということですか?」
「もちろん、それが芸術作品と呼ばれる資格を持つもの
であればということですが」
「たとえばファン・ゴッホの絵の中に生き続ける、あの名も
なき郵便配達夫のように?」
「そのとうりです」
「彼はきっと思いもしなかったでしょうね。百数十年後に、
世界中の数多くの人々が美術館までわざわざ足を運び、
あるいは美術書を開いて、そこに描かれた自分の姿を
真剣な眼差しで見つめることになるだろうなんて」
「まず間違いなく、思いもしなかったでしょうね」
「みすぼらしい田舎の台所の片隅で、どう見てもあまり
まともとは思えない男の手によって描かれた、風変わりな
絵に過ぎなかったのに」
私は肯いた。
 
       村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(新潮社)
 
 

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日々の言葉

 維継中納言は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、
読経うちして、寺法師の円伊僧正と同宿して侍りけるに、
文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、「御坊をば
寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今こそよりは
法師とこそ申さめ」と言はれけり。いみじき秀句なりけり。
     『徒然草 第八十六段』(岩波文庫)
 

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